中村不折は、明治・大正・昭和にわたり、洋画界と書道界の両分野において大きな足跡を残した人物である。画家を志した不折は、小山正太郎(1857-1916)の薫陶を受けた後、フランスのアカデミー・ジュリアンに入学し、ジャン=ポール・ローランス(1838-1921)の指導のもと、約4年間かけて人物画を徹底して学び、緻密な構図をベースに躍動的で力強い写実主義を確立した。帰国後は、太平洋画会の会員となり、展覧会に毎年出品する一方で、文部省美術展覧会(文展)では審査員をつとめ、帝国美術院会員に任命されるなど、洋画界での活動は実にめざましいものであった。太平洋画会研究所においては、後進の育成にあたり、後にその校長を務めるなど、教育者としても大いに貢献した。
ところで、洋画家として出発した不折が書道研究に傾倒した最大の契機は、明治28年正岡子規とともに日清戦争従軍記者として中国へ赴いたことにある。この機会に約半年をかけて中国、朝鮮半島を巡遊し、後の彼の書に少なからぬ影響を与えた『龍門二十品』や『淳化閣帖』などの拓本をはじめ、漢字成立の解明に寄与しうる考古資料を目にし、それらを日本へ持ち帰ることを得たのである。書においては、こうした書の古典から多くを学び、なかでも北派の書を根底とした不折独自の大胆で斬新な書風を展開した。明治41年に書かれた、いわゆる“不折流”のデビュー作となった『龍眠帖』は、書道界に一大センセーションを巻き起こした。印象的で一風変わった不折の書は、そのデザイン性の高さと親しみやすさから、店名や商品名のロゴに用いられることが多かった。現在、我々が身近で目にすることのできる不折揮毫のものとして、「新宿中村屋」の看板文字、清酒「真澄」や「日本盛」のラベル、「神州一味噌」、「筆匠平安堂」などがある。
また、明治の文豪たちとの親交も深く、夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』の挿絵や、島崎藤村『若菜集』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀・挿絵も手がけている。